第3回 前編【療育の前にいいたいことがある!】

第3回 前編【療育の前にいいたいことがある!】

第3回 全ての問題の土台は、親の心のなかにある(前編)

うちの学校の保護者と面談していると、おかあさんがよく泣くんだよ。で、「今の内容のどこが泣くポイントか教えてください」と聞くと大抵「え?」と泣き止む。だって、どこにも泣くようなポイントはないんだから(笑)。つまり何となく漠然と悩んでいるだけなんだね。

 

最近のおかあさんたちは、ママ友で集まってランチ会するじゃない? そうするとみんなで「共感している」ような錯覚に陥るみたいなんだけど、実はそれは共感じゃなくて「共有している」だけなんだよ。話しているうちに、隣に座っているAさんの問題がいつの間にか私の悩みにすり替わってしまう。だから「共感している」と言いながら、すっきりせずモヤモヤだけが溜まっていく。6人でランチすると最終的に6人分の悩みを抱えるわけだから、そりゃ大変(笑)。だから、「共感ランチはやめておけ」って保護者には言っている。共有していることを「共感」という言葉で捉えるみたいに、多くの問題は言葉の定義が間違っていることにあると僕は思っている。

 

例えば、療育の分野で「自閉症は治る」といわれるんだけど、「治る」ってどういう意味だろう? だれもその定義を明確化していない。自閉症そのものが消えてなくなることは絶対にない。じゃ、何を治すの? 療育論は、主婦が好きな「幸せ」とか「愛」とかの抽象的な議論に近い。言葉が具体化されることのないまま、なんとなく、話だけが進んでいっているのが現状。みんな方程式のxを定義しないまま方式を解こうとしているの。

 

おかあさんたちは、支援学級の先生に優しさを求めているんだよね。でも「優しい」の定義が曖昧。あのね、本当は優しいかどうかではなく、しっかりと効果が出せる、仕事ができるかどうかが基準なはずでしょ? 自分の子供を預かるっているわけだから、効果が出せない先生は困ると思う。離婚した女性に「なぜその人と結婚したの?」と聞くと、「優しかったから」と答える。結果論だけでいうと、結局「優しい」は役に立っていなかったわけ。だから「優しい」をもっと具体的に定義するようにアドバイスしている。例えば「ブスにも優しいとか、姑から私を守ってくれるくらい優しい」とか。残念ながら「優しい人がいい」っていう場合、たんに「自分にとって都合がいい人」の場合が多いんだよね。

次に、親子の共依存。確かに子どもに障害があると距離を取りにくい。それでも「おかあさん、自立しましょうね。子どもと距離を置きましょうね」とあえて言いたい。周りの「がんばっているね」という言葉が、おかあさんの自己承認要求を満たしちゃってしまう。すると私は「苦労すればもっと褒められる」という変な学習をしてしまう。俺に言わせれば、「障害者のおかあさんをあまりほめるな」って感じ。

 

だからスタッフにも保護者に同調するな、といっている。だって転んだ子に「痛いでしょ、痛いでしょ」といったら本当に泣いちゃうよね。同じく、「大変ね。かわいそうね」って言われることで、お母さんの誤った思考パターンを後押ししてしまう。「大変な私=がんばっている私=私の存在意義」って勘違いしちゃうからよくない。ここまでくるともう子供の問題でなく、親の心の問題。

 

だからさ、おかあさんがもつ悩みや不安を、子どもに不随する問題なのか、自分自身に付随する問題なのかを一度整理した方がいいよ。だって、子ども自身は、「自分が障害をもって生まれた」っていう自覚はもってないから。いたってナチュラルなこと。うちのがっちゃんだって自分のことを「生まれつき自閉症でかわいそうだ」なんて思ったことはないはず。

 

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