不憫な子供なんていない

不憫な子供なんていない
障害ではなく特性として受け入れる

大変だけど不幸ではない

私が自閉症向けの事業をやりたいと思ったのは単純な理由からです。
それは我が家の長男が自閉症だからです。
息子が学校に通うようになって、他の自閉症の子供たちと接するようになりました。
おもしろいことに自閉症の子供たちがかわいいと思うようになりました。
それで漠然とですが、いつか自閉症の子供たちが住みやすい世界をつくれたらな、と考えていました。
で、気づいたら自閉症の子供達の世界に足を踏み入れていたというわけです。

まず最初にお伝えしたいのですが、私は世の中に不憫な子供はいないと思っています。
少なくとも子供達自身は自分が不憫だとは考えていません。
自閉症に限らず様々な障害を持った子供は、生まれつきその状態があたりまえなのです。
だから自分自身を不幸だと思っている子供はいません。

 

むしろ子供達は不幸を後天的に学習します。
それは親を含むまわりの人たちから「不憫な子だ」と決めつけられた時にそうなるのです。
誰かの境遇を不幸だと決めつけることは差別であり先入観でしかありません。
残念ながら多くの偏見は親自身から始まります。

 

もちろん障害に伴う困難や試練はあります。
しかしそれは決して不幸と同義語ではありません。
大変であることと不憫なことは全く別の話です。
オリンピック選手を目指す人の大変さや試練を不幸と呼ぶ人はいないはずです。
同じく障害を持って生まれた子供たちは、一般の人たちよりもチャレンジングな課題を持っているたくましい魂です。
親や関係者としてできることは、彼らが自分の課題を達成できるようにサポートし、共に歩むことです。

福祉ではなく社会的な取り組みとして

アメリカでは福祉業界に従事している人のことをソーシャル・ワーカーと呼んでいます。
つまり「社会的な仕事」に従事しているという意味です。
私はこの言葉が好きです。
なぜなら「福祉」という言葉がしっくりこないからです。
福祉というと、何かより劣った人、弱者のために何かやってあげているというイメージが強いからです。
つまり一歩間違うと、「弱者に何かをやってあげている」といった上目線になりがちです。

 

もちろん福祉業界に従事しておられる方々を否定しているわけではありません。
しかし、福祉という範囲を超えた目線で、発達障害を抱えている子供たちと関わっていきたいと思っています。
なぜなら子供たちの多様な個性を受け入れていく土俵は社会的な取り組みであるべきだからです。

自閉症は特性です

日本に引っ越してきて感じたのは、自閉症の子供を持つご家庭の閉塞感です。
まずは親一人一人の意識を変えていくことが社会の体制を変えていく原動力になります。
まず最初にいえるのは自閉症は「治す、治さない」ではありません。
なぜなら病気ではないから最初から治すものではないからです。

 

別に自閉症を「個性だから」とキレイごとで流すつもりはありません。
しかし自閉症は生まれつきの「特性」であることは事実です。
そして自閉症の特性はハードである脳の回路によって決まってきます。
よって、療育のようなソフトで直せるものではありません。

自閉症は特性ですが、社会的な規範からすると少数派であるために障害とされているだけです。
逆にジャングルでサバイバルをやれば、彼らの直感的な感覚は私たちよりも有利に働くでしょう。
しかし感覚が全く違うため、今の社会では摩擦を起こします。

 

自閉症が障害となるのは脳機能に障害があるからです。
それを障害と呼ぶかどうかは視点によりますが、世界を捉える感覚や認識が一般と違うということは事実です。
従って自閉症は決して心理的な問題ではありません。
決して親の育て方や環境が悪いのではありません。
だから親は自分自身を責める必要は全くありません。
これが自閉症への取り組みの第一歩です。

 

自閉症であれ他の障害であれ、このテーマはご家族にとって長い人生単位での取り組みになります。
親自身が精神的に自分を追いつめてしまっては、子供より前に燃え尽きることになってしまいます。

自身が胸を張って子供と共に歩んでいく

アメリカに引っ越して驚いたのは自閉症に対する認知があたりまえだったことです。
公園やお店でがっちゃんが騒いだりイタズラをしても「Autism」というとすぐに理解をしめしてくれます。
また自閉症関係の仕事に従事した人が結構多く優しい言葉をかけてくれます。

 

がっちゃんはビバリーヒルズとサンタモニカの間にあるエリアの学校に通っていました。
土地柄もあると思いますが、支援学級に子供を迎えにいくといつもオープンで堂々とした父兄が子供を迎えにきていました。
それをみていつも「かっこいいな」と思いました。

 

でもそれも当然な話で、障害を持つ子供を持ったということで自分を恥じたり卑下したりする理由はどこにもないのです。
自分自身もかっこいい親でありたいなといつも思っています。
そしてそうなることが障害を持つ子供たちに対する偏見を取り除くきっかけになると思います。
障害者の親だからだというだけで、みすぼらしく悲しそうな生活を送るべき理由はどこにもありません。

子供の顔を表に出す

アイムの方針は「生徒の顔を表に出す」です。
もし親が胸を張って自分の子供を表に出せないのであれば、子供はいつ胸を張っていけばいいというのでしょうか?
障害だからといって隠すのはそれを恥だと思っている親の世間体でしかありません。
しかし世間は心配性の親が考えるほど、障害者に関して悪口をいっていません。
むしろ手をさしのべてくれる人の方が多いです。

 

アイムは全ての保護者から、生徒の顔をブログやメディアに出す承諾をもらっています。
なぜなら顔が見えないと世間からの協力を得ることは難しくなるからです。
普段から生徒たちの顔を見てもらうことによって、いろいろな企業や有力者から親近感をもってもらい、様々なサポートをしもらっています。

またブログなどの写真を通じて、身内や学校や地域の関係者にも楽しい放課後デイの様子をみてもらいたいと思っています。
放課後デイは助成金によって成り立っていますので、地域の税金の一部がどのように障害の子供達のために有効活用されているかを知ってほしいからです。

 

そしてアイムは一般の子供達も通いたいと思ってもらえるようなかっこいい福祉施設を目指しています。
福祉ってかっこいいんだ、と思ってもらえることによって、障害者の社会的な地位も向上することができます。

子供に媚びない目線

おもしろことに、私が生徒たちのために購入したオモチャを持っていくと誰も遊んでくれません。
逆に私が遊びたいとおもったオモチャをもっていくと、すぐに生徒たちが飛びついてきます。
そして多くの保護者が「同じ年頃の子供たちと交流させたい」というのですが、実際には子供達は自分より年上の大人が大好きです。

 

だから私は子供を子供目線で扱うことはしません。
だからアイムの教室には子供サイズのテーブルや椅子はおいてありません。
子供っぽいデコレーションではなく、大人がいたいと思うようなインテリアを心がけています。

 

アイムでは子供のペースでなく大人のペースに生徒を引き込みます。
なぜならそれが社会を知る一番よい方法だからです。
だから私はあえてがっちゃんのために同年代の子供のいる家族と遊ばせようと思ったこともありません。
あくまでも自分の仲間と遊ぶ時にがっちゃんを連れていきます。
だからがっちゃんには沢山の大人の友達がいます。
そして私自身が行きたいところに連れていき、自分が興味を持ったことを子供と一緒にやります。

 

アイムの教室でも、私やスタッフがおもしろいと思ったことを大勢の子供たちと一緒にやっていければと思っています。
障害だから、子供だから、何かをしてあげたいのではなく、一緒に歩んでいく。
そうすることによって我々社会の可能性と未来が開けると信じています。